時事ネタコラムのページ [利酒日記別室]

2009年5月


2009年5月1日
 お客様は神様ではありません。


 駅前でティッシュ配りをしているのはおなじみの光景だが、 先日、ある所でティッシュを受け取ったとき、こんなことがあった。

 配っていたのは30代くらいのネクタイを締めた男性社員で、某大手消費者金融会社であった。

 私が受け取ると、「ありがとうございます。お疲れさまでございます。」 と言って、彼は頭を下げた。その振る舞いがちょっと意外で、だけどとても好感が持てた。

 私は幸いにもこれまで消費者金融のお世話になったことはない。 これからもないと思う。世間では良い印象のない業界だが、 あのような社員がいるだけで、会社の印象もちょっとは変わる。

 今日このエピソードを書いたのは、頭を下げて下手に出た営業態度をとれば、 どんな企業でもイメージが変わる、だからそうすべきだ、なんてことを言いたいためではない。 私は決してそんなことを思ってはいない。

 当コーナーの
3月31日付コラムに、 飲食店の接客態度のことを書いた。 その時、誤解を与えたくないので、続編を書こうと思っていたのだが、延び延びになってしまっていた。

 同コラムは、 「真のホスピタリティが感じられる店こそ、名店と呼ばれるのにふさわしいのである。」 という文章で結んでいるが、店舗という閉鎖空間におけるホスピタリティは、 決して店側の接客態度だけでつくられるものではない。 我々客側の姿勢もまた重要なのである。

 「お客様は神様です」とは、往年の歌手・三波春夫の名台詞(*注)だが、 いつの頃からか、あらゆる業界で至上命題のように言われるようになった。 だが、あえて言いたい。「お客様は神様などではありません」と。


 * 注:三波氏自身も、この言葉を、「お金を払ってくれるお客様こそが一番偉い」 などという意味で使っていたのではない。それを、言葉尻だけとらえて、 金を払う人間のわがままは聞くべきだ、というようなまったく違う意味として 使われるようになってしまった。
 サービス業においては、サービスを提供する側も、される側も、 対等でなければならない。客は金銭を支払って、それに見合うサービスを受ける。 どちらが偉いといった関係ではない。あくまでも等価交換なのだ。

 対応が悪い、遅いといって、怒鳴っている客を時々見掛けるが、 たいていの場合、私と同じ中年世代の男性だ。 そういう人には、ちょっと前の流行語を使って、 「人間としての『品格』に欠けますよ」とご忠告申し上げたい。

 社会で相応の地位を得、それなりの収入もある中年男性には、 自分たちが社会を動かしているといった驕りの気持ちが生じがちなのではないだろうか。 しかし、「金を払う側が偉い」なんていうのは、 非常にさもしい根性である。 ましてや、接客をする店員は客のわがままを聞いて当然とか、 金融会社は格が低いから下手に出て当然なんて思うのは、歪んだ差別意識そのものである。

 駅前で無料のティッシュを配る社員も、会社の経費を使って立派な仕事をしているのである。 人々からともすると良く思われない会社の一員であっても、 真面目に誠意を持って懸命に仕事をしている姿は美しいし、 それに対して我々消費者も、彼らを尊敬こそすれ、決して見下した態度などとるべきではない。

 今度彼のような"ティッシュ配り"に会ったら、「ありがとう」と言って受け取ろう。

2009年5月10日
 「ありがとう」の文化


 関西では当たり前の光景だが、 客が店でお金を払ったあと、客のほうから「ありがとう」と言って、店を出る。

 これが珍しいというので、日テレ系のバラエティー番組「秘密のケンミンショー」で 紹介されていた。関西以外の地域では、「ありがとうございました」と店員が言うのは 当然であっても、客のほうはせいぜい「どうも」などと言う程度であると。

 元々関西出身ではない私だが、大阪に既に20年以上住んでいる。 さすがに毎回ではないが、時々私も「ありがとう」と言って帰る客になる。 ここ大阪では、それが当たり前の行為だから。とても良い習慣だと思うのである。


 ちなみに「ありがとう」は標準語のように 「あがとう」と、 "り" にアクセントがあるのではなく、 「ありがう」と、 "と" にアクセントがある。

 先日、当コラムに、 『サービス業においては、サービスを提供する側も、される側も、 対等でなければならない』と書いたが、 お互いに相手にしていただいたことに対して感謝の念が持てて、 初めて本当の信頼関係が生まれるのだ。

 私は、学生時代に飲食店でアルバイトをしていた経験から、 お客に「ごちそうさま」、「おいしかった」などと声を掛けられると、 店員はとてもうれしいということを身をもって知っている。 だから、客として飲食店を利用したときには、 「ごちそうさま」を言うのはもちろんのこと、 味に感動した場合には、率直にそれを伝えることにしている。

 していただいたことに対して感謝の念を持って接し、お互いがお互いを称え合う。 「ありがとう」の習慣は、それをさりげなく実践するものだ。

 関西の文化は、奥深いのである。

2009年5月12日
 中年世代に、余裕がない。


 ペーパードライバーである私は、基本的に毎日電車を利用しているのだが、 公共空間である電車内で、不快な気分を味わうことも少なくない。

 まだ降車の人たちが降りきっていないうちに、強引に乗り込もうとするのは だいたい中年男性である。 扉際に立ったまま自分は一歩も動かず、他者の邪魔になってもお構いなし。 そのくせ自分が降りるときは、無言でぐいぐい押してきて、強引に降りようとする。 そういった「オレ様」中年が、多すぎる。 特に私の住む大阪には、その種の手合いが多いのだ。

 私は仕事柄、若者に接する機会も多いのだが、 よっぽど若い人のほうが、公共マナーを心得ている。 社会学者等に言わせると、最近の若者は、 他者との衝突を過度に恐れる傾向があって、 必要以上にへりくだっているのだ、などという分析もあるが、 少なくとも我が物顔で他者に不快感を与える中年よりは、 よほどましであると、私は思う。

 昨今、中年世代に何かと余裕がないというのは、 致し方ない部分もある。景気は厳しく、先行きは見えない。 労働は過酷で、精神的なゆとりなど生まれない。

 私自身も、そんな渦中にいる中年の一人だが、 せめて他者への気配りだけは忘れない人でありたいと思う。 というか、遊び心を忘れない中年でいたいと思う。

 公共空間で何か不快な目に遭うと、 「よし、これはネタになるぞ」と、ほくそ笑んでしまう。 サイト運営者ならではの発想だが、 どんなことでも楽しめる余裕が持てれば、 人生はもっと豊かになる。

 そう考えると、明日またもっと不愉快な経験ができないだろうかと、 期待すらしてしまう。 こんな私は、変でしょうか。

2009年5月16日
 そんなDNAなど、ありません。


 "日本人のDNA"などという言い草が、私は大嫌いである。

 「海外に行くと、無性にお茶漬けが食べたくなる。やっぱり日本人のDNAですね」とか、 「男をつかまえるなら、料理は肉じゃが。日本人ならみんな好きなはず」なんて聞くと、 「べつにお茶漬けなんか一生食べなくてもいいし、肉じゃがが食卓に出てくると、げんなりするんだけど」 と、私は言いたくなる(ホントです)。

 「まあボクのDNAは豪快でしてな。お祖父ちゃんはボクが生まれる前に死んでるけど、 聞くところによると大酒飲みの女好きやった。」

 「ボクにはね、以前、実業をやってた頃からいっぱい女性がおったんですよ。 そりゃ、段々と数は少なくなってきたけどね。多いときは、まあもうちょっとで10人でんなあいうくらいは おったね。素人も玄人も含めて。」
 愛人との熱海旅行を週刊誌にすっぱ抜かれ、辞任した鴻池祥肇(こうのいけよしただ)官房副長官の弁明である。

 関西弁でこういう下品なことを、言わないでほしい。関西のオッサンは皆こういう連中だと思われたらかなわないし。 とまあ、冗談はともかく、自らの意思による行動をDNAのせいにするとは、 なんとも○○の穴の小さい男である。

 この件に関してTVで街頭インタビューをしていたが、 「政治家としては問題だが、こういうことがあるくらいのほうが男としてスケールが大きい」 みたいな発言をしている素人サンがいた。まあ、そういうオッサンはきっと、自分も同じようなことをしてるに違いない。 で、多分、それが男のサガとかなんとか言うのだろう。

 不適切な関係、という言い草も気に入らない。やたらと規律とか倫理とか日本人の品格なんてことを言いたがる 代議士センセイならば、「倫理にもとる行動をしてしまいました」となぜ言えない。 言っていることとやっていることが正反対ではないか。 日本の伝統を守りたい、などということをことさら強調する連中は、 結局、男の幼稚なやんちゃを大目に見て欲しい、というのが本音なのではないか。 そんなオッサンこそ、市中引き回し、である。

 JRの無料パスを使ったというのも、実にせこい。 そんなことが許されるなら、芸人さんも、女は芸の肥やしだからといって、 不倫旅行を経費で落としたらいい。

 一般人にも、「女遊びは男のサガ」などと言って憚らない輩が多いが、 そんな言い訳をする程度の小物に、男全般を語る資格はない。 「妻に飽きて、別の女性と遊びたくなった。全部ボク自身の意思でやったことです」 となぜ言えない。「ボクは一人の女では満足できない。 それが許されないことはわかってる。だから自分のやったことには全責任を負う」となぜ言えない。 そう断言できない人間は、それこそ男と呼ぶに値しない。

 自分のやったことに全責任を負い、言い訳をしないのが大人というものである。 自分の行動によって招いたすべてを、全部自分の責任として背負う覚悟がない人を、 大人とは言わない。

 浮気はDNAがさせているのではない。自らの意思でそれをしているのだ。 恥を知れ。

2009年5月18日
 民意より党内事情


 もちろん、閣僚を決めているわけではなく、 単に一政党の代表を決めるわけだから、内部の人間が一番良いと思える人を選出すれば、それでいい。

 多くの世論調査で、民主党代表にふさわしいのは岡田さんの方だという結果が出ていたのに、 民主党議員が下した結論は、逆だったということだ。

 まあ、「選挙対策のために岡田さんを選びました」という露骨な戦略よりは、 もしかしたらよかったのかもしれない。鳩山新代表選出後の世論調査で、 民主党支持が拡大したという、ちょっと意外な結果を見ると、 とにかく政権交代を、という声が大きいということなのだろう。
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 インフルエンザ禍に見舞われているここ関西は、かなり日常生活に影響が出てきているとも言えるし、 ニュースで騒いでいるほど非常事態の雰囲気はない、とも言える。 私自身の生活は、実際のところ何も変わりはしない。明日火曜は仕事でクライアント企業に行かなければいけないし、 水、木曜には会合もある。

 中1の息子は今朝、いつものように地下鉄で学校に行った(イヤだイヤだと言いながらも、 電車内ではマスクをしていたらしい)が、 1時間目の最初に先生から「来週月曜まで休み」と言われ、友だち数人とハイタッチをして喜んだとか。 朝10時過ぎには帰ってきた。

 インフルエンザで苦しんでいる方々のことを考えると、非常識なことは言えないが、 突然1週間も休みをもらった健康体の子供たちにとっては、 「台風で休校」以上に、ウキウキしているのかもしれない。今日の兵庫・大阪は、 そういった雰囲気である。

 もっとも息子たちの学校は、来週は中間テストなので、 「準備の時間がたくさんとれて良かったな」と言ってやったら、渋い顔をしていた。

 現在の日本のインフルエンザに対する警戒態勢は、 H5N1型のいわゆる鳥インフルエンザに対するもので、 危険度のまったく異なる今回の新型インフルエンザに対して、 ここまで厳戒態勢をとる必要はないだろう。その点は、 舛添厚労相も記者会見で言及している。

 心配なのは、多数の感染者を出した学校に対して、 批判的な発言がネット上などで出始めていることだ。 もちろん、危機管理体制は非常に大切ではあるが、 単に特定の学校だけの問題ではない。

 目に見えないウイルスに対して、人間は無防備なのだという事実に、 改めて気づかせてもらった。

2009年5月20日
 "浮く"のを恐れる人々


 一昨日、インフルエンザの話題を書いたが、 ここのところ関西では、街中のあらゆる場所で、人々がマスクをしている。 人混みではない普通の道を歩くときにもマスクをしたままの人が多いのにも驚くが、 電車内で8割以上の乗客がマスクをしている光景は、異様である。

 ニュース番組で、大阪中心部で街頭インタビューをしていたが、 「いつもマスクをしているんですか?」とのレポーターの問いかけに、 通行人は、「皆がしているから、マスクしないと異端のように見られそうだから」 と答えていた。

 出たぞ!日本人。
 周りの人に合わせないと、変わり者と見られていやだから、 とりあえず同じ格好をする。そこまで"浮く"ことを恐れる姿勢は、 まさに滑稽である。

 こうなると、あえて逆らいたくなるのが私の性格だが、 よその会社に行くとか、会合に出席するときには、 エチケットとしてマスクを着用している。 私がウイルスの媒介者となってはいけないし、 実際に媒介はしていなくても、相手に不安感を与えてはいけないからだ。 それだけが目的であって、皆がしているから、なんて発想は私にはない。

 この件に限らず、なぜ皆と同じようにしないの?なんてもし聞かれたら、 どうして皆と同じでなければいけないのか、と逆に私は詰問したい。

 近年、この国では、「自分らしく」とか、 「個性を伸ばす」といった言説が流行っているが、 皆が個性、個性と言っているから、 「私も個性を発揮しないと、仲間はずれになってしまう」 と、浮かないように必死になっているのだ。 ああ、あほらし。

2009年5月22日
 関西人を、偏見の目で見ないでください


 東京都内で新型インフルエンザの感染者を出した高等学校の関係者が、 記者会見で「世間をお騒がせし、ご迷惑をお掛けして申し訳ありません」 と謝っていた。

 なぜ謝る必要があるのだろう。世間が要求しているからか?  ならば、なぜこんな態度を取らなければならないような「世間」になってしまったのか。 私には、そのシーンは、ただ滑稽としか写らなかった。

 大阪で感染者をたくさん出した学校に対して、偏見の目が向けられているらしい。 タクシーでその学校の名を告げたら、乗車拒否にあったという話が、新聞に載っていた。 その学校の関係者だというだけで、避けられるというのだ。 こんな話を聞くと、とにかく何か理由をみつけて、他人を差別したいと思っている人が 多いのではないか?と感じてしまう。

 今感染していない私もあなたも、ただ偶然罹っていないだけだ。 運が良かっただけなのだ。確かに学校などの組織における危機管理の問題もあるが、 たとえどんなに注意をしたとしても、感染症は完璧には防ぎきれない。 それを、感染者がたくさん出たという理由だけで、その学校を差別するという現象を見ると、 こんなことでは、いつまでたってもこの国から差別はなくならないなと、悲しくなる。

 今回多くの感染者を出したその学校は、 大阪ではそれなりに有名な中高一貫校なのだが、 早くも「来年の志願者は減るのではないか?」などと囁かれている。 誠にお気の毒というしかない。こんな風潮に、私は強い怒りを禁じ得ない。

 こんなことが続くと、関西人全般が、他地域から差別されないとも限らない。 偶然というか、幸いにというか、 今のところ私は他地域への出張予定はないが、 もし仕事で行った先で「関西から来ました」と言っただけで、イヤな顔をされたら どうしよう。

 そんなつまらない、偏見に満ちた人は多くないと、信じたいけれど。

2009年5月26日
 マスク姿が減りました


 新型インフルエンザで揺れた関西では、学校の一斉休校も結局、先週一週間で解除され、 また普通の生活に戻った感がある。

 人混みや電車内で観察すると、先週とは打ってかわって、 マスク姿が極端に減った。先週は電車内では8割以上といった感じだったのが、 今日見ると、2割程度になっていた。

 べつにインフルエンザが急速に沈静化したわけではない。 ではなぜ? ・・おそらく、皆、"飽きた"のだろう。

 橋下大阪府知事が「普通の生活に戻ってください」とアナウンスしたことも奏功して (一連の府知事の対応は、概ね良かったと思う)市民にあった過剰な警戒感が、 薄れたというのもあったかもしれない。

 それにしても、熱しやすく冷めやすい人々の多いこと。 さしずめ、流行に敏感な都会人!といったところか。

 もちろん、インフルエンザの感染拡大には細心の注意を払わなければならないが、 まるでブームに踊らされたようになり、冷静な判断力を失うことの方が、 よほど危険であると私は思う。


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