時事ネタコラムのページ [利酒日記別室]
2006年2月
2006年2月2日
ルールを守ること以上に大切なこと
最近、大きな事件続きで、ちょっとのことでは驚かないような世相になっているが、
多くのニュースに共通していることは、「ルールを守る」という社会生活においては基本的な事柄ができていなかったことに
起因するということだ。
ビジネスホテルが建築工事の完了検査後に違法な改造を行っていた事件で、
会見した社長は悪びれることなく、「制限速度60キロのところを、67、8キロで走っちゃった」などと述べ、
あたかも不注意で度を超してしまったかのような言い訳をした。
しかも、「障害者用の部屋は年に数回しか使わないからもったいない」などと、あまりにも率直な意見を言っていた。
確かに、あのホテルのやった程度の不法改造は、色んな所でやられている、ごくポピュラーなものだ
(ポピュラーという言い方は決して穏当ではないが、あえてポピュラーと言ってしまいたいくらい、ありふれた手口ということだ)。
しかし、皆がやっているからといって、免責されるわけではない。
罪の意識が希薄であることの根底には、「もっと悪いことをしている人間はいっぱいいる」との思いもあるのかもしれない。
確かに世の中は理不尽だ。急成長を遂げた会社だからこそ、やっかみを受けてリークされるということもあるのだろう。
勝ち組・負け組などという下品な言葉が流行している時代だからこそ、自ら勝ち組を自認する方々には、
より一層高い倫理観と、社会的使命を自覚してもらいたい。
耐震強度偽装問題で、「経済設計が悪なんですか?不経済設計がいいんですか?」と開き直ったマンション業者社長
にも通ずるものがあるが、金儲け第一主義のほころびが、始まっているように思う。
ルールを守るという、最低限のことができない人には、社会に参加する資格はない。
いや、ルールを守るなんて当たり前のことは、今さら言うべきことではない。
「成功」を勝ち得ようという野望を持つ人には、「人のために身をなげうつ覚悟」
を持ってほしい、とつくづく思う。
その覚悟もないのに、競争に勝った、などと、浮かれないでほしい。底の浅さが透けて見えるよ。
2006年2月5日
真のプロとは
2日の当コラムで、「成功」を勝ち得ようという野望を持つ人には「人のために身をなげうつ覚悟」を持ってほしい、
と書いた。
この書き方だと曲解される恐れがあると気づいたので、少し注釈を加えておく。
人のために身をなげうつ、などというと、「お国のために身を捧げる覚悟」が必要だなどと、
どこかの議員が言い出しそうである。無論、私の主旨はまったく違う。
近年よく、保守系議員が、「奉仕の心」なんてセリフを口走ることがあるが、
私はそういった発想には真っ向から反対である。彼らは、「国家」という実体のないものに対して
無批判的に忠誠を誓え、という、いわば非人間的な発想であり、先祖返りも甚だしく、許し難いと私は思う。
私の発想は、こうである。
個人主義というのはまさに個を大切にすることであるから、自己の幸福を徹底的に追及すると、
自己よりもまず生身の他者の存在を尊重することが大切だという所に行き着く。
他者の幸福なくして自己の幸福はありえないからだ。
事業においても、他者を顧みず自己の利益だけを追求する者は、真の幸福を得ることはできない。
これはまさに生き方の問題だが、そのような哲学に基づかない商売は虚しく、どこかでほころびが生じる。
私は学生の頃、飲食業でアルバイトをしていたことがあるが、
お客さまから「おいしかったよ。ありがとう」と言われたときの喜びほど、大きいものはなかった。
あの頃の体験が、仕事に対する私の基本思想を作ったと言っていい。
誰かを幸せにする職業こそが、この世の中に必要な職業であり、それは単に儲けさせるとか、そんなことではない。
誰かに幸せになってもらえることを最上の喜びとできる人こそが、
最高の職業人だと、私は信じている。
社会のために奉仕しろとか、国のために尽くせ、などという発想は空虚で、結局誰をも幸福にしない。
従順な国民を望む、一部の為政者を除いて。
自分の仕事の向こう側にいる人の笑顔を最上のものと考えれば、ルール違反などできないのはもちろん、
「儲ければ勝ち」「コストカットは当然」なんてセリフは出るはずがない。もちろん商売である以上、
コストを抑え、利益を増大させる工夫は必要だが、それ自体が目的になってしまっている人は、
本当のプロではないと、私は思う。
「人のために身をなげうつ覚悟」が必要であるというのは、
自主的にそうすることが皆を幸せにし、あくまでも結果として自己にも利益が返ってくるという、私の確信に基づく。
奉仕の強制とは、180度違うのだ。
こういう私に対して、「あなたは青い」とか、「それではビジネスにならない」などと、これまで善意で忠告してくれる
人もたくさんいたが、そういう処世術みたいなものを身につけ、オレは稼ぐビジネスマンだ、などと思っている人たちこそ、
真のプロでは絶対にない、と私は思っている。
2006年2月16日
必要?
本日2月16日、神戸空港が開港した。
大阪国際空港(伊丹)、関西国際空港とあわせ、なんと25キロ圏内に3空港がひしめき合う結果になった。
本当に採算が取れるのか、疑問視する声も多い。
整備新幹線問題もそうだが、これまで各都道府県は、「他県に空港があるのに、わが県にないのはおかしい」
という本音をもう少し聞こえのいい言葉に言いかえて、なんとか空港を誘致しようとしてきた。
これぞ我田引鉄、我田引港である。
もちろん、地域住民にとって本当に必要なものなら、たとえ赤字になろうと、税金で補填してでも維持すべきであろう。
しかし、神戸空港に関していえば、建設の是非を問う住民投票を実施しようと、市人口の半数以上の署名が集まったのにもかかわらず、
市議会はこれをあっさり否決し、建設にひた走ったという経緯がある。誰がどんなに反対しようと、作ることは初めから決まっていた、
という感じなのだ。
こういう施設が作られる時には、事前に需要予測というものが行われるのだが、実にまやかしが多い。
神戸空港では、伊丹空港に近い地域の住民まで、神戸を利用するとして、数字がはじかれている。
伊丹を廃止するという前提ならわかるが、廃止の予定はもちろんない。
おそらく、事前予想どおりの利用客数を確保するのは無理だろう。赤字になれば、国民の税金が投入される。
そこまでして維持する必要が果たしてあるだろうか。
同じような愚行を、静岡でも冒そうとしている。神戸と同様に、県民人口が何万人だから、利用客も何万人、
というまやかしの論理で数字が作られているらしい。静岡でいえば、県の東部は羽田、西部はセントレアを使うと思うのだが・・。
私は、昨今の「公共事業はなんでも悪い」的な、改革バカの意見に与するつもりは毛頭ない。
地域住民の利便性のために必要な公共事業なら、大いにやるべきだし、税金はそういうことに投入されるべきだと思っている。
戦闘機なんか買う金があったら、そっちに振り向けろ、と思う。
しかし、あまり必要のないものを地域の(というより首長や議会の)メンツだけで作り、無駄に税金が投入されることには絶対反対である。
伊丹と関空の間でさえ綱引きがあるのに、もともと小さいパイを3空港で食い合っても、
決して地元住民のためにはならない。
神戸も静岡も政令指定都市。全国的に見れば恵まれた地域と言える。これ以上、そんなにモノが欲しいのですか?
と言いたい。
2006年2月25日
オリンピック考
当サイトのトップページに置いている「つぶやき」欄に、今月21日、
次のようなことを書いた。
「がんばれニッポン」「どうしたニッポン」・・そんな空気がたまらなくイヤなので、
私はオリンピックにはまったく興味がない。選手に「皆さんのご期待に添えなくてすみません」
なんて言わせるムードは絶対におかしい。出場選手本人が、競技を最高に楽しんでくればそれでいいはずだ。
「あとはフィギュアに期待するしかないですね」なんて簡単に言うコメンテーターを見てると、
「お前らが選手をつぶしてるんだぞ」と言いたくなる。(2006,2,21)
ふだんスケートなんかに一切興味のないような人々が、アラカワー!、スグリー!、ミキティー!
なんて応援してる。マスコミも、日本人なら日本選手を応援して当然、なんて論調だ。
そこに私は大いなる違和感を感じるのだ。
オリンピックが国威発揚の装置になっているとしたら、それは文化後進国の証。
スポーツ観戦というのは、それがどこの国の人であろうと、個人的に好きな選手を応援するべきものだ。
フィギュア自由演技の前に、トリノで街頭インタビューをしている局があった。
「誰に勝って欲しいですか?」と、マイクを向けられたあるイタリア人男性は、「アラカワ!」と答えていた。
「彼女のファンなんだ」と言っていた(わざわざそういう人を探してきて、さも自然そうに放送する局の姿勢もいやらしいのだが)。
もし東京の街頭で、マイクを向けられた日本人男性が、「スルツカヤに勝って欲しい」と答えたら、
たぶんそのシーンはカットされるだろう
(いやもちろん、件のイタリア人男性のような返答が、イタリアのTVで放送されるかどうかもわからないが)。
どこかに属しているだけで、その団体を応援しなければならない、という雰囲気が、私は大嫌い。
「お前は関西に住んで、阪神を応援してるじゃないか」と指摘されそうだが、私が阪神ファンになったのは、
まだ東日本に住んでいた子供時代からである。タイガースというチームと選手たちを、ずっと愛してきた。
私が高校野球にあまり興味がないのは、出身地の高校を応援しなければならないようなムードが、
たまらなくイヤだからだ。
「あなたはどちらのご出身ですか? そうですか。宮城県ですか。東北高校が勝つといいですね」
発言の主はまったくの善意のつもりだろうが、宮城県出身者がPL学園を応援しちゃいかんのかい!
と、私は思う(注:私は宮城県には何の縁もない。単なる一例である)。
荒川選手の滑りを見て、その美しさに魅了され、自らもスケートリンクに足を運ぶ。できれば親子で。
そうやってスケート人口が増えるのならば、女子フィギュアに対する熱狂には意味がある。
ふだんスケートのスの字も知らず、オリンピックの時だけ「頑張れニッポン」なんて叫んでる
勘違いオヤジたちには、「まずアンタのその腹のだぶつきを、なんとかしなさい。スケートにでも行ってこい。」と申し上げたい。
2006年2月27日
オリンピック考 -その2-
一昨日、次のような文章を書いた。
荒川選手の滑りを見て、その美しさに魅了され、自らもスケートリンクに足を運ぶ。できれば親子で。
そうやってスケート人口が増えるのならば、女子フィギュアに対する熱狂には意味がある。
実際のところ、フィギュアスケート選手を1人育てるためには、尋常でない資金を必要とする。
たぐいまれな才能を持つ子供でも、親が経済的負担に堪えかねて、スケートをやめてゆくケースが多いという。
荒川選手の家庭は経済的に恵まれていたらしいが、それでもトータルで億単位にも及ぶ負担に、
家族は相当な無理を強いられたと聞く。
スポーツニュースを見ていたら、例によって小泉首相が、荒川選手に祝福の電話を掛けているシーンが放映されていた。
この人はほんとうに、「強者」、「勝者」が好きなんだなあ、と思う。
その姿に邪気がなく、純粋であればあるほど、私は腹が立って仕方ない。
たぶんこの人は、「頑張ればこうやって報われるんだ」と思って、
心から選手を讃えているのだろう。世の中のほとんどの人が、こんな成功を収めることなど絶対にできないという、
冷徹な事実に思いを致すこともしないで。
それこそ数千人に1人の才能と、それを伸ばすのに必要な膨大な資金と、本人の血の出るような努力。
それら稀有な条件がすべて整ったうえ、さらに幸運(偶然)に恵まれて、初めて世界の頂点に立つことができる。
荒川選手の陰には、頑張っても報われなかった、あるいは、才能があったのに経済的理由で頑張るチャンスが与えられなかった
数百、数千の少女がいたに違いない。
そういう世の中の冷酷な部分を、おぼっちゃま育ちの首相は見ることなく、今日まで来たのだろう。
頑張っても報われなかった。頑張るチャンスが与えられなかった。そんな人にこそ、
やさしい手をさしのべることのできる成熟した世の中は実現できないものか。
成功者と呼ばれる人に、今こそ求められるのは「ノブレス・オブリージュ」の精神である。
挫折を知らない、世の中の陰を知らない政治家が説く「実力主義」ほど、空しいものはない。
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