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2009年8月


2009年8月8日
 子の学力を左右するものは


 08年度の全国学力テストを受けた公立小学校の6年生について、 今月4日、文部科学省の専門家会議が調査結果を報告した。

 それによると、保護者の年収が高いほど子どもの成績がよいという 関連性が見られたという。

 年収1200万円以上の家庭で国語、算数の正答率が平均より8%以上高かった一方で、 年収200万円未満の家庭では平均より10%以上低かった。 基礎知識を見る「国語A」と「算数A」の正答率を、 保護者の世帯年収階層別にまとめたのが、下左表である(日本経済新聞8月5日朝刊より転載)。

世帯収入正答率(%)
国語A算数A
200万円未満56.562.9
200万円〜300万円59.966.4
300万円〜400万円62.867.7
400万円〜500万円64.770.6
500万円〜600万円65.270.8
600万円〜700万円69.374.8
700万円〜800万円71.376.6
800万円〜900万円73.478.3
900万円〜1000万円72.879.1
1000万円〜1200万円75.681.2
1200万円〜1500万円78.782.8
1500万円以上77.382.5
平均69.474.8

 表上でざっと数字だけを追ってみても、世帯年収が高くなるに従って、 正答率も高くなっている様子がはっきりとわかる。

 社会調査などで、ここまで はっきりとした関係が確認できることは珍しい。まさか数字を作っているなんて ことは考えられないから、これが事実なんだろうと思うが、 新聞では左表のように2科目とも基礎的知識を見る「A」だけを取り上げており、 知識の活用力を問う「B」の詳細数字についてはわからない。

 ただ、両科目とも「B」のほうがより一層違いが大きく、特に「算数B」では、1200万円〜1500万円の 世帯と200万円未満の世帯との間で、平均正答率に23.3%もの開きがあったと報じられている。

 詳細な報告書がどこかにないかと検索してみたのだが、見あたらなかったので、 表の「国語A」と「算数A」の数値を用いて、ごく簡単な分析をしてみることにした。




 各科目の正答率と世帯年収との関係がわかるように視覚化したものが、上の2つのグラフ(散布図)である。 世帯年収については、それぞれの階層の中央値(但し、200万円未満については150万円、 1500万円以上については1700万円)を統計上の階級値としてある。

 このようにグラフ化すると、世帯年収と各科目の正答率には、明白な正の相関があることが わかるが、1次関数(線形)よりも 対数関数に近い関係があるように見える。そこで、世帯年収の各階級値について自然対数をとった上で、 各科目の正答率(%)を被説明変数、世帯年収の対数値を説明変数とする単回帰分析を行ったところ、 次のような結果となった。

 国語Aの正答率 = 5.8147 + 9.8205×LN(世帯年収)
 (相関係数0.98145, 決定係数0.96325, 有意水準 p<0.01, LNは自然対数を示す。)

 算数Aの正答率 = 15.0393 + 9.2438×LN(世帯年収)
 (相関係数0.98100, 決定係数0.96237, 有意水準 p<0.01, LNは自然対数を示す。)
 統計学を勉強された方ならわかるはずだが、回帰分析で決定係数が0.96を超えているというのは、 極めて説明力が高い。つまり、各科目のテストの正答率は、世帯年収でほとんど説明できる のである。言い換えれば、今回の学力テストにおける子どもの国語Aと算数Aの正答率と、 世帯年収には密接な「相関関係」がある(有意水準1%どころか、0.1%でも帰無仮説は棄却される)。

 ただ、間違えて欲しくないのは、 両者に「相関関係」があることが証明されても、「因果関係」が証明されたことにはならない点である。 つまり、テストの正答率という「結果」を決める「原因」が、世帯年収であるなどと 証明されたのではないということである。理由はわからないが、両者の数字には「相関関係」があるという 点だけが、事実なのである。

 では、子どもの学力を決める「原因」は何か(・・・ここからは統計的事実ではなく、 私見である)。

 もちろん、直接的な原因は、端的に「学習量」なのではないかと推察されるが、 子どもを学習へと駆り立てる要因を想像してみると、やはり家庭環境というものが 大事ではないかと、私は考えるのである。

 世帯年収の高い家庭は、両親(その年収を稼ぎ出す親たち自身)が高学歴である確率が高い。 すると、子どもに要求する最終学歴も、親自身の最終学歴を基準として考えるであろうし、 そもそも家庭における日常会話も、(誤解を恐れずに言えば)知的なものが多いのではないだろうか。 もちろん、学歴だけで会話の知的水準が決まるわけではないから、断言してはいけないが。

 「ウチの子は勉強しない」と嘆く親は少なくない。

 だが、 胸に手を当ててよく考えてみるべきである。親自身が勉強しないのに、 どうして子どもが勉強するだろう。 子どもに読書をさせたければ、親自身が熱心に読書をし、 そのような家庭環境をつくるべきではないだろうか。

 タレントで映画監督の北野武氏(弟)、大学教授の北野大氏(兄)という兄弟は、 彼らがTVなどでも公言しているとおり、貧しい家庭で育てられたと聞く。 だが、彼らの知的水準が非常に高いことは、見ていてよく分かるであろう。

 教育に十分かける資金がなかったとしても、親の意識、意欲、 創出する知的環境によって、子どもはその才能を開花させるという良い例ではないだろうか。

 さて、翻って我が家では子どもとどんな会話をしているかといえば、 「あそこのうなぎは関東風」とか、「500系のぞみはまだ1日2往復くらいある」とか、 「カードで買ったほうがポイントが付いてお得」とか、なんか消費のことばかりだ。

 息子が小学生の時にお世話になっていた塾の先生のところに、中学合格後に挨拶に行ったら、 「次の目標は何ですか」と聞かれ、「まだそこまでは・・」と答えると、 「お父さん、そんなことではダメですよ」と叱られた。

 そうなのだ。人生における次の目標を、常に明確に 考えることが、勉強に対するモチベーションを上げる有効な方法なのであり、 そうすれば自ずと学力も伴ってくるのではないだろうか。

2009年8月25日
 ビラとパンフレットは、違うのだそうです


 「このパンフレットは、政党の自由な政治活動であって、 選挙期間中でも自由に配布できます。」

 そう書かれた「パンフレット」を、昨日帰宅した時、郵便受けの中に発見した。

 なんでも、背中をホッチキスでとめてあれば「パンフレット」であり、 「ビラ」ではないから、選挙期間中に各家庭の郵便受けに投函しても、 公職選挙法違反には問われないのだそうである(下記、公職選挙法第201条の5を参照)。

 しかし、同条をよく読むと、「ビラ(これに類する文書図画を含む・・・)」と書いてある。 紙数枚を重ねて半分に折って、真ん中をホッチキス止めしたものは、 「これに類する文書図画」にはあたらないのだろうか。大いに疑問である。

 ところでその肝心の内容だが、一言で言うと、「お前の母さんデベソ」。 具体的に引用することは避けるが、 嫌いなヤツのことなら、あることないこと言い放って 同調者を増やそうという、小学生みたいな発想だ。 失笑するしかない。

 特定の支持政党を持たない私からすれば、 まあ政党なんてものは宗教団体みたいなものだから、 信じるのも信じないのもまったく自由なのだが。
 [参考] 公職選挙法 第201条の5 (総選挙における政治活動の規制)

 政党その他の政治活動を行う団体は、別段の定めがある場合を除き、その政治活動のうち、 政談演説会及び街頭政談演説の開催、ポスターの掲示、立札及び看板の類 (政党その他の政治団体の本部又は支部の事務所において掲示するものを除く。以下同じ。) の掲示並びにビラ(これに類する文書図画を含む。以下同じ。)の頒布 (これらの掲示又は頒布には、それぞれ、ポスター、立札若しくは看板の類又はビラで、 政党その他の政治活動を行う団体のシンボル・マークを表示するものの掲示又は頒布を含む。以下同じ。) 並びに宣伝告知(政党その他の政治活動を行う団体の発行する新聞紙、雑誌、書籍及びパンフレットの普及宣伝を含む。以下同じ。) のための自動車、船舶及び拡声機の使用については、 衆議院議員の総選挙の期日の公示の日から選挙の当日までの間に限り、これをすることができない。


2009年8月31日
 変わらなかったことと、変わったこと


 308議席という圧倒的多数を民主党が獲得し、政権交代が決まった30日の総選挙。 この結果を見て、私はまず率直に「恐い」と感じた。

 一度ムードができてしまうと、皆が一気にそちらに流れてしまうこの国の人々の気質。 4年前の「郵政選挙」の時と、何も変わっていないと思ったのだ。

 郵政民営化がすべての改革の本丸であるという小泉旋風に踊らされた前回。 とにかく政権交代というスローガンが席巻した今回。 振れすぎた振り子が、反対側に大きく戻ってきただけで、 国民の本質は変わっていないのではないか? そうだとすると、 たいへん恐いことである。

 だが、冷静になって考えてみると、あの時と今回とでは、 本質的に違うことがある。

 「郵政選挙」では、それまでの悪弊を変えてくれそうな一人の「英雄」の言葉に多くの人が酔い、 中身を吟味することなく、無批判的に支持してしまった。 閉塞感を打破するためには、強力なリーダーシップが必要だという、もっともらしい理由まで付いて、 その流れが正当化された。ところが今回は違う。

 小泉改革の化けの皮がはがれ、結局「痛み」は国民に押しつけられたままで、 それを放置し続けた与党に、多くの人が完全に「NO」を突きつけたのだ(もちろん理由はそれだけではないが)。 だから決して、鳩山という「英雄」を熱烈支持したのでもなく、 政権交代という「呪文」に洗脳されたわけでもない。

 民主党が積極的に支持されたのではなく、自公政治が嫌われただけの消極的支持なのだと、 批判的に語る評論家がいる。だが、消極的支持のどこが悪いのだろう。

 だれか一人を、一つの思想を、無批判的に支持することはとても危険なことである。

 今回は、ただ一つの道として民主党を選んだのではなく、民主党でも何でもいいから、 とにかく新しいことをやらせてみよう、という選択なのだ。とても健全だと思う。

 前回の郵政選挙以来、私は事あるごとに、小泉政治を批判してきた。 プライベートの場でも、「戦後最悪の首相だと思う」と言う私に対し、 「そんなことはない。最高の政治家だ」と反論する人が、いかに多かったか。 彼らは今、どんな思いでいるのだろうか。

 ゆうちょ資金が市場に出ず、国へ流れ、特殊法人などを潤す原資になっていた。 この一番の問題を変えなければならない。誰しもが納得することではあったが、 だからといって事業会社を4分社化し、公益性の高い郵便事業まで市場原理の中に放り出すことが、 果たして国民のためになるのか。そういう議論が、当時国民の中には、ほとんどなかった。

 その後わき上がった、「格差問題」。

 「格差はいつの時代にもある」と言い放ち、それ以上議論をしようとしない。 それどころか、「格差がある方が健全」と居直る構造改革派。 そういう政治家や評論家たちを、私はずっと批判してきた。

 間違えて欲しくないのは、格差はいつの時代にもあるというのは、当たり前の事実で、 格差をなくして全員横並びにしろ、などと要求しているわけではないことだ。 平等という言葉が嫌いな人たちは、「格差問題」という言葉を発する人にすぐサヨクなどと レッテルを貼りたがるが、非常に低脳な中傷である。結果の平等など、誰も求めてはいない。

 「競争社会」というのであれば、フェアな競争を保障しなければならない。 同じスタートラインに着かせようとしないで、 負けたヤツは自己責任などとうそぶいている、その卑怯さに我々は怒っているのだ。 「努力をした者が報われる社会に」などときれい事を言うが、 弱い者は努力さえさせてもらえない。スタート以前に力でねじ伏せておいて、何が競争社会か。

 これからは、それが少しはマシになって行くだろう。本当の実力社会になってゆくことを、 私は期待している。

 新しい政治を選ぶとき、この政策では私は得をしないとか、 我が業界が割を食うなどといった、結局は私欲でしか物事を考えられない人が多い。 それはとても寂しいことである。 民主党の掲げる子ども手当は、子どものいない家庭に対する差別だという声が既に聞こえる。 それなら、大企業ばかりを優遇してきたこれまでの税制は、中小企業や庶民に対する差別ではなかったか。 一つの政策で、全体が潤うというのは難しいのだ。

 今後、新しい与党が、どのように国を変えてゆくのか。 冷静に見てゆきたいと思う。



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