時事ネタコラムのページ [利酒日記別室]

2010年2月


2010年2月1日
 破綻会社と株主責任 〜真の自己責任とは何か〜


 会社更生法申請に伴い、株主にも責任を求めるとして、株券が紙くずと化してしまった日本航空。 当然、投資家たちには大きな衝撃であった。
 最近、新聞の投書欄等を見ていても、株主たちの嘆きの文章をよく目にする。

 「老後のためにと思って、少ない資金の中からこつこつと投資をしてきたのに、 株の知識も乏しい個人投資家にまで責任を求めるなんて・・。私が何か悪いことをしましたか?」 などといった、悲痛な叫び。

 だが、ここで立ち止まって考えていただきたい。

 株を買うということは、企業の将来性、成長力などを信じ、 資金を拠出することによって、その企業活動を支えることである。 だがその企業の経営実態が、早晩公的資金を注入しないと立ちゆかなくなるような状況であるのに、 投資家が株を保有、売買することで支えていたとすると、 それによって事態をより深刻にさせ、より多くの国民の税金を投入しなくてはならなくなる。
 とすれば、株を買って支えていた人たちは、 国民全体に迷惑をかけたことになるのだ。

 「破綻するかどうかなんて、素人株主にはわからない。」 そういう言い訳は通用しない。投資とは、そんなリスクをすべて背負わなければならないものなのだ。 もちろん、その背後には、経営が傾けばどうせ最後は国が支えてくれるだろうという安心感が あったはずであり、株主だけの責任でないのは明らかであるが・・。

 市場主義的な考え方を尊重する人たちが、すぐ口にしたがる「自己責任の原則」は、 こういうときにこそ貫徹されなければならない。 儲かったときだけ利益を享受し、損をしたら人のせいにするなどは許されないのである。 「私が何か悪いことをしましたか?」に対する答えは、 「残念ながら悪いことをしたのです」と言うほかはない。

 当コラムで、私はしばしば市場至上主義を批判してきたが、 私はべつに競争を否定する人間ではない。むしろ完全な競争を望み、 競争を貫徹すべきと考える一人である。 ではなぜ、市場至上主義を批判するのかといえば、 自由競争とか自己責任などを強調したがる人々の大半は、 本音では公平な競争など、ちっとも望んでいないくせに、競争、競争と口走るからである。

 十分な学歴が得られなかった。満足の行く企業に就職できなかった。それはすべて競争の結果なのだから、 その責任はすべて負わなければならない・・。そういった発言が典型的なのだが、 今の日本社会では、公正な競争の結果として色んな格差が生じているのではなく、 生まれ育った環境により、十分な教育が受けられなかったりするわけで、 スタートラインがまったく違うのだから、それは本来「競争」などとはとても呼べないものなのだ。

 政治の世界で「構造改革」が叫ばれて以来、この国で推進されている「競争」とは、 既に権力や資金力をもつ側が、自分たちに都合のいいようなルールを作り、 絶対に逆転できないような状況を作ったうえで、 「さあ自由競争だ」と言っているに過ぎない。

 もし、自由競争、自己責任を徹底するのであれば、 相続税率を100%にすべきである。つまり、親の財産は一切子どもには承継させないで、 皆、ゼロからのスタートとする。 それから、学費はすべて無償として、税金すなわち国民全員の負担でまかなう。国民全員に、 平等な教育機会を与える。 そういった下地が整えば、本当の競争ができる。

 そして、自由競争をさせるもう一つの大前提として、敗北した人間に対して再チャレンジの機会を与える フォロー体制(セーフティーネット)を完備しなければならない。


 ※よく、「税金が高いと勤労意欲が削がれる」とか、「給料が安いと優秀な人材が集まらない」 などといったお決まりのフレーズを耳にするが、手取が少なかったら働きたくないなどという人間は、 優秀でもなんでもないと私は思う。金で勤労意欲が左右されるなどは、 アマチュアではないか。
 私のこの提案に賛同できないような人は、自由競争とか自己責任などという言葉を発する資格はないと思う。

 誰しも生まれてくる場所は選べない。生まれた境遇や性別などによって、 何らかの不利益を被らなければならないとしたら、そんなところに公正な競争は成立しない。 全員が同じスタートラインに立てる社会であるならば、私は自由競争、自己責任の原則に大賛成である。

 株式の話に戻すと、企業の株を買うか買わないかは、 自分の金を使って自由意思で決定することだから、全員が同じ条件にある。 だから、公平な競争なのであり、従って、それによって生じた結果は、 当然引き受けなければいけない。

 株主責任とは、そういうものなのである。

 私は、共に支え合う社会が理想と考えているので、国民にとって日本航空という会社が必要であるなら、 税金を注入して支えることは、当然のことだと思う。いや、本当に必要な会社なら、そもそも 民営化などしなければよかったのだ。

 郵政の問題で、例の竹中平蔵氏は、「民営化を逆戻りさせたら、きっと国民負担は増える。 その時に私の主張が正しかったことがわかる」などと発言しているが、 郵政の中でも特に郵便事業は、たとえ赤字であっても全国津々浦々までのサービスを維持すべきであるし、 そのために国民負担が増えるとしても、それは皆で支えるべきものだと私は思う。

 田舎はカットされてもしかたないというのは、都会の人間の横暴である。 私は自らの意思で都会に住んでいる人間だが、そのためにコストがかかるのは仕方ないと思っている。 過疎地で必要とされるそうしたコストも、都会の人間が負担すべきなので、 喜んで支払いたいと考えている。 もしそれがイヤなら、都会になど住まなければいいのである。

 だから、財政投融資など、不透明な資金の流れの問題と、郵便事業とは、 きっちり分けて議論すべきだったのである。 郵便事業のみ国営として、赤字分は国民全員で負担し合う形が良いと思っている。 つまりこれは、自分の暮らすこの国をどういう社会にしたいかという問題である。

 田舎が切り捨てられるのは田舎の自己責任などとする暴力は、断じて許してはならない。 田舎に暮らすのも自己責任ではないか、と言われるかもしれないが、 過疎地に生まれたくて生まれた人はいない。そして、そこから出たくとも出られない境遇の人はたくさんいる。

 一方、経済活動として、自分の自由意思で投資をした人たちこそは、 それによって生ずる結果には、自己でその責任を負わなければならないのである。


2010年2月5日
 そんなに、つぶやきたいですか?


 ある日の我が家の夕食時の会話。

妻: (息子に向かって) 「F君は中学入学早々から塾に行ってるんやろ?」
息子: 「うん。鉄○会やて」
妻: 「すごいやん! あんたも行く?」
息子: 「ボクはいいワ。医者になりたいわけちゃうし」
妻: 「でも、数学が思わしくないから、基本に帰って、家で 百ます計算 でもする?」
私: 「計算や暗算の能力と、数学の能力はあんまり関係ないからなあ・・。 数学の才能がある人ほど、計算嫌いだったりするし・・」
息子: 「ま、ボクはどっちもアカンけどな!」

 私だけ関西出身ではないので標準語だが、まあ、こんな感じで我が家では会話が流れている。 他地域の方からすると、こんな風に家族の会話にもいちいちオチをつけるというのは、ちょっと面白いかも。

 しかし、こんな他人の家の会話を聞きたいと思う人が、いったいどれだけいるだろうか。 どうでもいいというのが、大多数ではないか。

**********
 最近、巷では Twitter なるものが流行っているらしい。

 言ってみれば個人的な「つぶやき」を全世界に公開し、 誰かからの反応を待つものだろう。 どうしてそんなものが流行っているのか、私には理解できない。

 そもそも私は、ブログすら拒否し続けている。 当サイトも「ブログにしてくれたら、コメントを書き込めるのに」といったご意見を時々頂くけれども、 私はどうも、その時々の感情にまかせて書き散らかすということが、許し難いのだ。

 私は日頃、論文を書くことが多いのだけれど、論文というものは、 テーマを決め、調べることを調べ、文章構成を考え、何度も推敲して、完成するものだ。 世間に公表する文章というものは、そうやって練りに練って作られるべきものである。

 当サイトにしても、私は、一度書いた文章を、後から何度でも読み返し、 誤字脱字や、おかしな表現をみつけたら、その都度修正するようにしている。 文章とは、そうやって魂をこめるべきものであり、 ことばとは、それほど重たいものなのである。

 だから、感情の応酬のようになってしまいがちなブログのコメントなどは、 世間に公開すべきものとは到底思えない。意見表明というのは、 自分の中でよく反芻してから、言葉にするべきもので、 思ったことを瞬時に言い散らかす行為というのは、公害(口害)以外の何者でもない。 もし反対意見があるのなら、同じように考え抜いた末に、 責任ある文章にして、反論して欲しいのだ。

 だからTwitter で、思いついたことをすぐつぶやくなんて、そんな無責任なこと、 とてもではないが、する気にはなれない。第一、忙しくて仕方ないではないか。

 芸能人だけでなく、最近は政治家まで(首相までも!)つぶやきを世界に公開している。 どこにそんな時間があるのか、不思議である。 学生が授業中に携帯を打つのと同じように、そのうち、会議中に実況中継をする ビジネスマンが出てくるかと思うと、ゾッとする。

 皆が Twitter に狂奔する姿は、 いつメールが来るか心配で仕方ないから、風呂場にまで携帯を持ち込む女子高生とそっくりだ。 まあ、そんな病的な依存症も、大人になったら自然にやむだろうが。

 Twitter を毎日欠かさず5年継続しました! なんて人は、たぶん現れないと思う。 そのうち自然に廃るだろう。


2010年2月7日
 次世代を育てるために


 上智大学の運営主体である学校法人上智学院が、経済的に困窮する学生を支援するため、 独自の奨学金制度を創設すると報じられた。

 同学校法人の大学、短大、専門学校の在学生で経済的に困窮する者に、 1人あたり年10万円を毎年100名に支給するものだという。 返済の必要がなく、自宅生か下宿生かを問わない。 他の奨学金との併用も可能だという(もちろん10万だけでは少ないので、併用が前提であろう)。

 国民の経済的格差が拡大するなかで、今後、大学に通わせたくともそれができない家庭が増えてゆくことが 予想される。そういった時代に積極的に対応するものとして、とても素晴らしいことである。

 しかも、何より素晴らしいのは、今回この制度を導入するために、 教職員のボーナスの一部をカットして、財源に充てるというのだ。

 先生方がまさに身を削って、次代を担う若者たちを育成しようという姿勢。 こういう学校で学ぶことのできる学生は、幸せである。

 確かに、私立学校は今後どこも生き残りに必死という側面はある。 だが、一流大学がこうしたことを行えば、他への影響力という意味で、大きな意味がある。

 明るい話題の乏しい昨今にあって、久しぶりに希望の灯りを見たようなニュースであった。


2010年2月8日
 ずっと書きたくて、書けなかったこと −今日、自主規制を解除します


 キリンとサントリーの統合話が、破談となった。

 当サイトで当然取り上げていいような話題だが、これまでまったく触れずにきた。

 政治の世界の話とか、何か新しい法案が審議されているなんて話題ならば、 我々国民生活に直結し、主権者として発言することは許されると思うが、 私企業の行動について、何ら関係のない外野が、結論の出る前に意見を述べることはどうか?と 考えていたので、発言は控えていたのだ。しかし、もういいだろう。

 私は、昨年にこの話が出た当初から、統合には絶対反対であった。だから今は、ホッとしている。

 両社はいずれも既に巨大企業である。それが統合するとなると、 圧倒的なシェアを持つガリバーが生まれることとなるわけだが、 そうやって大企業がくっついてゆくことは、消費者のためにはならないと考えるからだ。

 まず、これまで両社の間で繰り広げられていた競争が、なくなる。 経営が安定することは、企業にとっては良いことかもしれないが、 力が強くなることによって、消費者の多様なニーズを吸い上げようというインセンティブが削がれる恐れがある。 つまり、経営が傲慢になる危険がある。商品が画一化され、選択肢が狭まる。 加えて、相対的に不利となる他のメーカーの弱体化が、促進されてしまう恐れもある。 だから企業は、(たとえ独占禁止法に触れないとしても)巨大になりすぎてはダメなのである。

 そもそも両社は、外から見ていても、企業風土が違いすぎるように思う。 統合すれば、両方の良さがなくなってしまうかもしれない。

 関西人からすると、サントリー本社が大阪からいなくなってしまうことの損失は、計り知れないと思う。 文化の薫り高いサントリーには、やはり大阪にいて欲しい。
(正確に言えば、もう既に実質的な本社機能は 東京なのかもしれないが、サントリーホールディングス(株)の登記上の本店は、大阪市にある)

 これからも、両社の良さをいかし、違いを明確に打ち出し、 健全な競争をして、我々消費者の舌を楽しませて欲しい。 私は、キリン製品も、サントリー製品も、どちらも愛している。

 と、そんなことを思いながら、
The Master を飲んでいる夜更け。


2010年2月14日
 情報を発信することの重み


 先日、当ページに、「
そんなに、つぶやきたいですか?」と題し、 最近流行の Twitter に関して批判的な意見を書いた。

 その Twitter にからんで、ちょっとした事件が起きた。

 ある女性が、行方不明の恋人を探してほしいと、Twitterに「捜索願」を書き込み、 「何かあれば○○警察署へ」と添えたところ、 実際にその警察署に「Twitterに書いてあることは本当なのか」といった問い合わせが相次いだという。

 女性は実際に、その警察署に捜索願を出していたとのことであるが、 警察が捜索願を受理した場合、まず非公開で捜索が行われるため、 問い合わせには「お答えできません」と言うしかないという。

 警察署では、女性の行動について、「きっとわらにもすがる思いだったのだろう」と理解を示しながらも、 「業務妨害になりかねない」と、困惑しているという。 確かに、今回のように多数の電話が掛かってきて、その対応に追われると業務に支障をきたすだろう。

 今回の騒動は、その後実際に行方不明の恋人がみつかり、 「恋人が発見されました!」という女性の書き込みで収束したというが、 もし騒動が長引いたら、もっと大きな社会問題になっていたかもしれない。

 もちろん、この女性に同情したい部分は多々あるが、 一個人が自由に、いつでも無制限に情報発信できるとなると、 歯止めのきかない事態ともなりかねない。

 インターネットは、情報を何のフィルターも通さずに発信できてしまうメディアである。 本来、情報発信する際には、それがどんな波及効果をもたらすかを慎重に検討した上で、行われるべきものである。 新聞、書籍、放送などは、そういうシステムがちゃんと働いている。だから信頼性が担保されているのだ。

 もちろん、発信前に誰かが中身を「検閲」せよなどと言っているのではない。 それは統制であり、弾圧である。そうではなく、 すべての人に情報発信の自由が保障されているからには、その前提条件として、 どのような波及効果があるかといったことを、 十分に検討してから発信するという原則を守らなくてはならないのだ。

 Twitter には、その時間的余裕がないから、問題なのである。

 深く考えもせず、その時々の感情に任せて言葉を発する行為は、 顔と顔をつきあわせた会話でも、人間関係を壊す元である。

 言葉を発する、情報を発信することの重みを、もっと真剣に考えるべきである。


2010年2月21日
 地デジにしたいなんて、誰が言った?


BS11
BS12
テレビ番組表(BS11ch, 12ch) 土曜日
 新聞の読者投稿欄を見ていて、思わず膝を打った。TVの地デジ移行問題に関する投書である。

 投稿者は、「地デジへの移行は、憲法第29条の規定『財産権は、これを侵してはならない』 に抵触するのではないか?」と述べる。

 当コラムで以前書いたことがあるが、 私は、かねがね地デジへの強制移行は、非常に問題が多いと思ってきた。 今さら後戻りはできないとしても、まだまだ解決すべき問題がたくさん残されており、 拙速な完全移行には反対の立場である。

 投稿者の論旨は、非常に単純明快。アナログ放送が予定通り来年7月に打ちきりとなれば、 地デジに対応していない受像機や録画機は、その瞬間、ゴミになる。つまりそれは、 個人が購入した資産が、国の施策によって、突然無価値なものになる。 よって、財産権の侵害にあたるというもの。言われてみれば、そのとおりである。

 我が家では昨年、それまで使ってきたアナログTVが壊れたので、 仕方なくデジタルハイビジョン液晶TVを購入した。こうやって古いTVの寿命が全うできた家庭はいいが、 そうではなく、まだ使えるのに買い換えなければならないとすると、大いなる資源の無駄であると同時に、 個人の財産が暴力的に奪われることにもなる。
 * これを、たくきよしみつ氏は、「貧乏人はテレビを見るな」 という政策だと言っている。まったくそのとおりである。

 なぜ地デジに移行するのか?については、
社団法人デジタル放送推進協会のサイト にも書かれているが、主たる理由は、「電波の有効利用」ということになっている。
 同サイトでは、電波利用の現状について、次のように説明している。
「日本の現状はもうこれ以上すき間のないほどに過密に使われており、 アナログ放送のままではチャンネルが足りませんが、デジタル化すれば、 チャンネルに余裕ができます。空いたチャンネルは、 今後のさらなる情報通信技術活用社会、情報化社会の進展のために利用することが計画されています。」

 電波が過密というのは、既に割り当てている電波帯以外には余裕がないという現状(これは正しい)を 言っているものだが、肝心のその使われ方については、相当に問題が多い。

 たとえば、皆さんは、BSデジタルを見ているだろうか。 NHKのBS1、BS2、ハイビジョン、BS日テレ、BSアサヒ、BSTBS、 BSジャパン、BSフジなどがそれ。ほとんど見たことがない、あるいは、 存在すら知らないという人も多いだろう。

 放送されている番組は、主に通販、地上波の再放送、外国のドラマなどで、 あまり視聴欲をそそられるものはない。

 ひどいのはBSイレブン(11ch)とTwellV(12ch)で、通販番組の比重が非常に高い(右の番組表を参照)。 こんなチャンネルに免許を与えておいて、「電波に余裕がない」とは、よく言ったものである。

 国内にはまだ、地デジが受信できない地域がたくさん残されている。 完全移行が予定されている来年7月までにアンテナ整備ができないことが決定している地域 もあり、その地域には、衛星から電波を供給し、パラボラで受けてもらうことと しているようである。それにより、見かけ上、地デジ受信100%が達成されたこととするというのである。

 そんなことができるのなら(いや、簡単にできるのはわかりきっている)、 民放全局を最初から衛星放送にすればいいだけのこと。 今のBSデジタルを止めれば、そこにスッポリ入れることができる。 なのになぜ、それをしないかといえば、 現行の「県域免許制度」(TV局は基本的に各県毎に設置する。但し、首都圏、中京圏、近畿圏のみは広域放送) が崩壊してしまうからである。つまり、 衛星から全国に飛ばすということは、全国一律の放送とせざるを得ないから、 東京キー局以外の地方局は、すべて不要となってしまうのだ。 だから、地方局がそんなことを承伏するわけがない。

 さらに唖然とさせられるのは、難視聴地域で衛星からの電波を受信する際には、 当該地域で従来からネットされていた系列局の電波だけしか受信させない というのだ(つまり、日テレ系の四国放送しか設置されていない徳島県内の 難視聴地域では、衛星から発せられる東京キー局5局の電波のうち、日テレだけしか見させないということ)。 視聴者の利益などまったく考えられてはいないのである。呆れてモノも言えない。

 そんなひどいことまでして、しかも国民の膨大な税金を使って、地デジ用のアンテナを全国に設置し、 結局やっていることは、瀕死の地方局の命を守ることだけ。 地デジ化の本質が、そういうところにあるという実態を、大多数の国民は知らされていない。 当の本人であるTV局がそんなことを漏らさないのはもちろんのこと、 TV局の株主である各新聞社も、絶対に報じない。つまり、公然とした情報操作なのである。

 デジタルになって画面がキレイになった!なんて、喜んでいる場合ではない。 情報は、得られるか得られないかがまずは大事なのであって、 画像がキレイでも、情報の絶対量が少ないのなら、まったく意味はない。
 画像のキレイさだけでなく、双方向通信もできるというメリットが喧伝されているが、 そんなことはインターネットですればいいことで、TVにそんな機能は不要である。

 国民の金を奪い、民間企業である地方局を延命させ、肝心の国民の利益など無視されている。 地域による情報格差の改善など、まったく考えられていない。 これを収奪と言わずして、何と言おう。

 もう後戻りはできないとするなら、最低限、国民の利益が確保されるように、 各地域で見たいチャンネルが全部見られるようにすべきである。 たとえばこれまでテレ東系がネットされていなかった地域には、新たにテレ東の電波を供給する。 隣県の放送が見たいという声が多いなら、それも供給する。その程度のことは、物理的にはすぐにできることである。 政権も代わったことであるし、「国民の生活が第一」を掲げる民主党に、 ここはぜひ英断をお願いしたい。

 私は大阪に住んでいるので、チャンネル的には首都圏に次いで恵まれている地域だが、 関西近県でいうと、三重県伊賀地方や、福井県嶺南地方や、徳島県では、これまでCATVで 近畿広域圏のアナログ波が供給されてきた。言うまでもなくこれらの地域は、 関西との文化的、経済的結びつきが非常に強く、人の交流も非常に多いからである。

 今のまま地デジに完全移行すると、たとえば三重県伊賀地方は、放送免許のテリトリーでは 中京広域圏ということで、文化的にほとんど関係のない名古屋のTVしか、放送されなくなってしまう。 これまでアナログでは許されていたCATVの「区域外再送信」を、地デジ化を機に認めないというのである。

 だが、そんなことは、絶対に許してはならない。 民放連は、「居住地域のローカル放送を見て欲しい」という立場だが、 その地域割りは県を単位にして、上から押しつけられたもので、住民の意向は無視されているのだ。

 こんな暴挙が進められ、国もそれを後押しするというのなら、 それこそ道州制を待たずに、 伊賀地方は三重県を離脱して奈良県へ、嶺南地方は福井県を離脱して滋賀県へ転籍すべきではないか。 そういった議論も出てきかねない。
(全国にはこういった、県域と文化圏とが異なる地域が、他にもたくさんある)

 多くの人に地デジ問題を知っていただくため、今日は書かせていただいたが、 より詳しくは、下記の新書をぜひ参照されたい。

・荒川顕一 「地デジにしたいなんて誰が言った!?
  晋遊舎ブラック新書、2008年8月10日発行、720円(税別)

・たくきよしみつ 「テレビが言えない地デジの正体
  ベスト新書、2009年9月20日発行、752円(税別)


2010年2月28日
 こちら、コーヒーのほうになります


 いわゆるファミレス言葉が一時期問題になったが、 最近はもう聞き慣れた感すらある。

 主に若者が使っていることもあって、 「最近の若者は他人の感情を害することを過度に恐れる傾向があるから、 遠回しな言い方をしたがるのだ」といった解説がされていたが、 もう聞いても違和感がないくらいに、広まってきたようにも思う。

 言葉の変容に対しては、いつの時代も、年配者がそれを憂える傾向にある。 「もっと言葉を大切にしろ」といった具合である。

 そういえば、私がまだ子供の頃の話だが、その頃いわゆる「ら抜き言葉」が 流行り始めており、「見れる」「食べれる」といった言い方が広まりつつあった。 それを聞いて、当時の私は、子供心にとても違和感があった一方で、 こうも思っていた。「この奇妙な言い方も、きっと数十年後には 辞書に載るくらいに、普通の言葉になっているに違いない」

 そして実際に数十年たった今、ほとんど違和感のない言葉になっている。 ただ、ワープロソフトなどでも、それらが「ら抜き言葉」であることを警告してくれるから、 まだ正式な日本語としての地位を得るまでにはなっていないようである。

 「日本人なら日本語を大切にせよ」といった言い方が、私は嫌いである。 日本語だから大切にすべきなのではなくて、何語であっても、言葉は大切にすべきなのだ。 だが、時代と共に変容するのも、言葉のあり方である。

 「いらっしゃいませ、こんにちは」という紋切り型の挨拶に、ほとんど違和感を感じなくなったように、 「コーヒーのほう」も、「ハンバーグになります」も、「以上でよろしかったでしょうか」も、 そのうちまったく違和感を覚えなくなるに違いない。 私はべつにそれでいいと思う。言葉というのは、コミュニケーションの手段なのだから、 目的である意思疎通ができれば、形態は変容してもかまわない。

 ところで今日、南米チリ沿岸で起きた地震による津波への警戒のため、 日本でも各地で警報や注意報が出されていた。TVでは、報道特別番組が組まれたりもしていた。

 実はそれを見ていて、しゃべりのプロであるアナウンサーの言葉の中に、ちょっと違和感のある表現があった。

 「警報が出ている海岸沿いの方は、高台などに避難されてください。」

 避難してください、というのが正しいと思うのだが、おそらく、より丁寧に言おうとして、 「避難されてください」と言ったのだろう。 「〜される」というのは「〜する」の尊敬語だが、尊敬の対象となる人物が行っている行為を 客観的に捉えて表現するときに使うのが普通で、相手に話しかけるときに使うのはおかしい。

 そのアナウンサーは何度も繰り返して使っていたから、その場に指摘する人がいなかったのであろう。

 まあ、こうやって使われていくうちに、このような表現も、普通の日本語になってゆくのかもしれない。 私は違和感を感じたものの、それを批難しようとは思わないし、むしろ、 日本語の変容をリアルタイムで見たような思いがして、興味深かった。



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